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インドネシアの旅

2008年11月29日 15:17

バリ島 その(2)

 バリ島は、「神々の島」と観光パンフレットで宣伝されているが、見て、体験すると実感することが出来る。現地のガイドは、スシーラさんと言って41歳の男性で、現地で日本語をマスターしたそうだが、向上心と好奇心が旺盛で、日本語や、現在の日本の状況にも精通していて、とても博識で、バリの歴史や宗教、風習も詳しく説明してくれてとても勉強になった。

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中央、民族衣装が、スシーラさん。NHKの取材や、早稲田大学の文化人類学の調査のコーディネートを通していろんなことに造詣が深く、また記憶力の良さには驚かされた。

 バリの人たちの大半が、バリヒンヅー教を信仰しており、これはインドから渡来したヒンヅー教と土着の宗教が融合して出来た独特のものだそうだ。バリの人たちは、江戸時代の農村の集落のように生活全てにおいて、人との付き合いを大切にする。祭りや冠婚葬祭は、何より大切にされ、仕事を置いてでも、全ての人が参加する。付き合いをおろそかにして「村八分」にされると生きて行けないことになるそうだ。毎日の生活が神様と共にあり、血縁、仕事、家の守り等、それぞれに神様を祭る。街を歩いていると、ひしめく様に神社や神様の祠がいたるところに見られる。その一つ一つに毎日、お供え物と共に祈りを捧げている。

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どの家の前の歩道にも毎朝、お供えが置かれる。
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住居の門から覗くと、家のお守りの祭壇が見える。
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町の食堂、主な交通手段はバイク。日本製のバイクが目立つ。
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町の床屋さん。カメラを向けると、笑顔で手を振ってくれた。皆、笑顔が素敵だ。

 農業を主とした生活は、見た目には決して豊かではない。しかし、生活と祭りを切り離して考えることは出来ないそうで、結構生活を楽しんでいるようだ。仕事が少ないこともあって、ほとんどの人が2つ、3つの仕事を掛け持ちしている。朝、農作業を2~3時間で終えると、その後で工芸品の細工や、祭りの歌や踊りを稽古するそうだ。ほとんど毎日と言ってよいくらい、どこかの町や村で祭りがおこなわれている。(観光客目当ての祭りでは無い)。
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村の中ですれ違った祭りの行列。これは、血族の霊を祭る行列で小さい方だ。この他に、村の祭り、神社の祭り、仕事の祭りと年中祭りがあるそうだ。

 ホテルのディナーショウーの10分の1の費用でケチャクダンスやその他の踊りが、町の神社で見ることができる。ちょうど日本の神社の境内のようなところで、幻想的な踊りを見ることができる。これで得た費用は、祭りの準備のために使われるそうだ。1時間以上、物語を踊り、歌い続けるのは楽しまなくては出来ないことだと思った。
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町の神社の境内で毎晩行われる、ケチャクダンスと火の祭り。1時間以上の物語に歌い踊り続ける観光の為だけでは出来ない。

 バリの一流ホテルは、西欧人が長期滞在するように設計されていて、プールの木陰で、ゆっくりと読書している姿を見ると、五泊七日、駆け足ツアーの我が身が寂しくなる。
バリには、独特の建築規制があり、ヤシの木以上の建物を建ててはいけない。因みにヤシの木の高さは、約15mだそうで、建物の高さにすると四階建位に匹敵する。それゆえに、バリのホテルは、低層で敷地を広く取ってゆったりと設計することにより、景観を保護しバリの雰囲気を残すことが出来る。
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ホテルの建物は高くても4階まで、バルコニーから見る庭に南国の花が咲いて美しい。
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ヤシの木と緑の芝がきれいだ。芝生の成長が早いので毎朝、手入れをしている姿を見かけた。
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狛犬のような、いかつい顔の石造の耳に、赤いブーゲンビリアがユーモラス!
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ホテルの庭に、いかにも東南アジア風の楼閣が雰囲気を出している。
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ホテルのプライベートビーチ、これがインド洋、水も澄んで温かく、水泳を楽しんだのだが、日本人は誰もいない。西洋人(白人)が木陰で読書や昼寝を楽しんでいる姿を横目に、次の集合時間を気にしている自分に、あ~溜息が出てしまう。

 ホテルを一歩出ると、貧困の現実と直面することになるが、街を歩くと、道行く人がにっこりとほほ笑んで挨拶してくれる。町を歩くと犬が多い。首輪をしていないが野良犬ではないそうだ。毎朝のお供え物が、歩道の脇にたくさんあって、神様のお裾分けを頂くことになる。犬も人ものんびりしていて、食堂でも勝手に犬が入ってくるのだが、別に追い出す訳でもなく、自然に町の風景に溶け込んでいてバリの人の優しさが表れているようだ。
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ホテルを一歩出た町の風景、決して豊かとはいえない現実がある。

 そして、バリについて特筆すべきことは、バリの寺院や、景観は世界遺産に匹敵する価値がありユネスコからたびたび、打診があるそうだが、バリ州政府は、これを固辞しているそうだ。なぜかと言うと、バリの人たちは現実の生活の中で寺院を利用しているので、世界遺産の指定を受けると使用の制限が多くなり不便になり、これからも生活に必要なので、遺産ではないと言うことだ。伝統を大切にする心と、自らの文化に対する矜持を見習うべきだと言う思いがした。そして、これが本当の保護だと思った。
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タマン.アユン寺院: 1634年建立、バリのヒンドゥー寺院の中でも2番目に大きな寺院で庭園が美しい。メルと呼ばれる10基の塔は、バリの代表的な山々を現わしているそうだ。

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タナロット寺院: 16世紀に建立、海の岩の上に立つ寺院で、夕陽をバックに浮かびあがる姿が神秘的なまでに美しい。生憎、当日は曇り空で寺院のシルエットしか見れなかった。
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インドネシアの旅

2008年11月27日 15:19

バリ島 その(1)

 前日まで滞在していたバリ島は、平均気温30度、20日に成田に到着すると気温5度、朝の外気が冷たく張りつめているのが、機内からでもわかる。赤道直下の国から約7時間で夏から冬へ。この温度差について行けなくて風邪を引き、折角の連休も熱と咳で寝込んでしまった。まだ、体がふらつくようだ。

 今回は、インドネシアのバリ島と、ジャワ島の古都ジョグジャカルタの寺院と世界遺産を巡って来た。メンバーは真言宗の僧侶と檀家さんを含む14名。少しメンバーは入れ替わったが、以前にも空海(弘法大師)の足跡をめぐる中国旅行をしたグループだ。

 前回は、仕事を兼ねて旅行に参加したのだが、その時の団長が大学の先輩で(旅行に参加することになった後で知ったのだが)金属工学を専攻し、クラブは空手部で卒業後、お寺を継いだと言う異色の経歴を持つ方で、今回も団長を務められた。確かに、私の実家は真言宗だが、それ程信仰心が篤い訳でもなく、お盆に墓参り行く程度の信心で、バリ観光「7泊5日のツアー」の歌い文句に惹かれて参加した。

 最初に、バリ島を語る前に、予備知識としてインドネシアについて少し触れておきたい。これも旅行のための一夜漬けの知識であることをお断りしておく。

 国名は、インドネシア共和国、1945年8月17日独立宣言、初代大統領はスカルノ、彼の第何婦人かの、(イスラムでは4人まで妻帯することが許されている。)デビ夫人と称する年齢不詳の女性が今もTVに出ているが、日本ではこちらが有名かもしれない。

 インドネシアは、約17、000の島から成り立っていてそのうちの約6、500は無人島で、いまだに正確な数字は把握されていない。面積は、189万キロ平方で日本の約5倍の広さを持つ。人口は約2億2千万。国民の約87%がイスラム教徒、9%がキリスト教、2%がヒンズー教で、圧倒的にイスラム教徒が支配している国だ。

 その中で、バリ島は33の州で成り立つ共和国の中のバリ州と言う自治体で、人口の約90%がバリ、ヒンズー教と言って、ヒンズー教と土着の宗教が融合した独自の文化を形成している。

 面積は、5,633キロ平方で四国の愛媛県とほぼ同じ面積で、これからも大きさが推測されますが、その中に約320万人が暮らしている。(参考に愛媛県は約147万人)

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ホテルのロビーで民族衣装での出迎えを受ける
 
主な産業は農業で1年を通して3度、稲が収穫できる。最近では観光に重点を置いて、農業従事者と観光に携わる人口の比率が各35%で同じくらいの比率になっている。観光に比重を置くと、今の素朴な田園風景が失われてゆき、バリの魅力が損なわれる恐れがある。しかし、この流れを止めることは出来ないだろと思うのだが、バリに滞在している数日の間で、この考えは訂正した方が良いことに気付かされた。

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宿泊先バリインターコンチネンタルホテルのプール。プールの先に見えるのがインド洋
プールサイドのコテージは、バーになっていて夜遅くまで泳ぎながら飲むこともできる。

ロータリー地区大会に参加して

2008年11月14日 00:41

先月、ロータリー地区大会が、習志野文化ホールで開催された。

 朝から参加して、一日、椅子に座っていて少々疲れた。大会のアトラクションとして、「習志野高等学校ブラスバンド部」の演奏があった。当初は高校のブラスバンドの演奏と思って、大して期待していなかったのだが。ところが、これが素晴らしかった。200名の部員がブラスバンドの演奏だけでなく、ミュージカル仕立ての楽しい演奏で、時間があっと言う間に過ぎて行った。青春、真っただ中と言ったところで、若さが輝いていて羨まし限りだ。

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演奏中の高校生
 
 その後、記念講演で「ロボットと共生する未来」と言うテーマで千葉工業大学の古田貴之氏が講演された。母校の先生と言うこともあって、関心はあったのだが、実際に見ると先生は若い。41歳、スリムで身長も高く、まるでミュージシャンのようだ。実際に、車のロボットを操作して、どんな道でも走行出来る未来の車を見せてくれたのだが、彼の生い立ちの話にとても興味が惹かれた。14歳の時に筋ジストロフィーの病を患い、車椅子の生活を余儀なくされた。その時に人の手を借りずに、自由に動きたいと痛切に思ったそうだ。

 この病気は、治療が困難で完治は望めないが、一万人に一人とも言われる確率で、奇跡的に回復した。小さい時からロボットに関心はあったそうだが、その時の体験がその後の生き方を決定づけたようだ。講演の中で、ロボットは人の役に立つものではなければならないと何度も強調していた。

 天才は、時々神の悪戯で造られる様な気がする。もし、難病が回復しなければ今日の彼はあっただろうか。もちろん、彼が、人並み以上の努力と研究を重ねた結果、今日の成果を得たのだろうが、時として、ひらめきは神の啓示が手助けしていないだろうか。優れた科学者や研究者は、どこからひらめきを得るのだろか。芸術や科学の世界で、難病や、大きなけがを克服した後に、優れた業績を残した例を見ることがあるが、彼もその一人ではないかと思う。今後の活躍に注目したい。

 帰りに、文化センターに隣接する大学の横を通ると、高層の新校舎の横に先ほどの講演に出た「ロボット研究センター」の真新しい建物の看板が輝いていた。しかし、昔、私が学んだ四階建ての校舎は、解体工事中。時の流れを感じながらも発展する姿を見て一安心。

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手前から、解体中の旧校舎、中央が新築の高層校舎、その先がロボット研究センター
 
 明日は朝が早い。一週間、インドネシアのバリ、ジョグジャカルタの寺院と、遺跡巡りに行ってきます。

[赤ひげ]と[青べか]

2008年11月05日 23:22

[青べか物語]

 以前、山本周五郎の全作品を読むと宣言して、毎晩、睡魔と闘いながら読書を続けている。今になると、大変な宣言をしてしまったと少し後悔している。と言うのも、作品の数が膨大で、何の脈絡もなく、片端から読んでもどのくらい時間が掛かるか予想も出来ない。しかし、良いこともあるもので、NHK BS放送で黒澤明、没後10年を記念して全30作品を放送している。

 先日も三船敏郎主演の[赤ひげ]を見た。加山雄三が青年医師として好演していた。その前は[椿三十郎]そして次回は[どですかでん]これらは全て山本周五郎の原作を映画化したものだ。先日、周五郎の代表作[青べか物語]と[季節のない街]を読み終えた。

 [青べか物語]は、昭和初期の浦安が舞台で、今のディズニーランドからは、想像もつかない貧しい漁村の風景が描かれていて、そこに住む人達の生活が、30の短編で物語られている。[青べか物語]読み終えて、周五郎の作品の原点がここにあり、作家としてまだ世に出る前に過ごした浦安での生活の経験が、その後の作品に多大な影響を与えていることが解る。

 作者を知るには、生い立ちや時代の背景を知る必要があると思うので、簡単に履歴を紹介したい。山本周五郎は、本名、清水三十六(さとむ)明治三十六年(1903年)山梨に生まれる。幼少のころから文才があったようで、小学三年の担任であった、水野先生に将来小説家になるよう奨められたそうで、作家自身が後に「私の一生を決定した恩人」と語っている。

 13歳で東京の親戚に当たる山本質店に住み込みで働く。当主の名が山本周五郎、彼のペンネームになった人で、その後の人生観に多大な影響を受けると同時に、売れない作家生活の時に経済的援助を受ける。23歳の時に浦安に移り、26歳までの三年間、赤貧に耐え、小説や雑誌の記事を書いて過ごす。

 この時の経験が、後の[青べか物語]となる。作家本人も貧しい生活を送りながら、冷静な作家の目でスケッチを描くように、貧しい漁村の人たちの日常の出来事を、同情と深い愛情を持って書いている。 [青べか物語]は、それから30年後、57歳の時に一年かけて文芸春秋に連載された。63歳で亡くなる6年前のことで、これを書くまでに随分時間を要した。それだけに思い入れも深かったのだろと推察される。
 
 山本周五郎は、社会のどん底で生活する人達を直視しながら、社会に取り残されて救われない人に対しての同情や、社会の矛盾に憤り、自身の無力を自覚しながらも、常に弱者の味方、理解者であろうとする姿勢を貫いた人だと思う。その後、作家として社会的地位を確立した後も、全ての賞を辞退したところに、この作家としての真骨頂を見る思いがする。

 彼は、生涯の作家生活を通して、社会の問題と真正面から取り組み、命を削るように創作する姿勢を貫いた。そこには鬼気迫るものがある。だからこそ、共感し感動するのだが、読み終えると何か重苦しいものが残る。疲れた時に読むには、少し荷が重すぎる。そこで、最初の宣言を少し変更して、時には、違う本を読みながらもう少し気楽に読みたいと思う、今日この頃です。