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正月休み

2010年01月31日 00:45

ふるさとの正月 

 つい先日、正月を迎えたと思ったのに、もう一月も終わろうとしている。今年の正月は妻の実家がある、兵庫の川西で迎へ、年が明けて自分の実家がある徳島へ帰省した。昨年末は、仕事納めの都合で一足先に妻が飛行機で帰った。その後、息子に正月の間の留守を頼んで、黒芝犬の小次郎と車で帰った。

 30日の朝9時に自宅を出発。幸いにも、高速道路はそれ程の渋滞も無くスムーズに走ったのだが、小次郎の体調を考えて、2時間おきに1時間ほど休憩を取りながら走った。それと言うのも、小次郎は車が大好きなのだが、助手席で四股を踏むように頑張って立ったまま外の景色を見ているので、足が疲れて小刻みに痙攣してくる。  

 しかし、それでも座ろうとしないので途中で水分補給とトイレ休憩をとることにしている。その日は、風も無く、日差しも穏やかでドライブには打ってつけの日和だった。途中、昼の食事に浜名湖ドライブインで休憩し、名物のウナギ弁当を小次郎にもお裾分けして食べた。関ヶ原を過ぎたころから少し渋滞が始まって2時間ほど低速運転が続くが、これは当初から織り込み済み。京都に入る前の琵琶湖ドライブインに16時前に着く。少し夕暮れ空に赤みが射してくる。 

 ここから京阪高速道路に入る。途中雲行きが怪しくなってきて、夜空から小雨が降ってくるが一時間ほどで上がった。京阪高速から、中国高速道路に入って、しばらく走って豊中インターで降りる。途中、大阪空港(成田と同じで大阪空港と言っても正確には兵庫県の伊丹にある)を横に見ながら、そこから30分ほど山に上がった、能勢電車の畦野(うねの)駅に妻の実家がある。

 この電車は、川西能勢口から妙見山まで行く阪急電車の支線で、阪急電鉄と竹中工務店が沿線に住宅地を開発した分譲地がある。義父が竹中工務店に勤めていた関係で40年ほど前に土地を入手して建てた家だ。19時過ぎに小次郎とのリトルジャーニーが終わり10時間のドライブも無事終えて実家に着く。  

 昨年の夏も来ているので、小次郎は義母のことも覚えていて再会の喜びを体一杯で表す。足を拭いて家に上がる許可をもらう。暫くの間、部屋のあちこちを嗅いで回っていたが、やがて落ち着くと皆のいるダイニングのテーブルの下に居場所を見つけて横になる。夜は、自宅から持って来たケンネルハウスを玄関に置くと素直に中に入って眠る。

 自宅では、暖かいリビングで過保護に育てているので、柴犬なのに冬毛が生えていない。しかし、こちらでの温度が2、3度低いので風を引かないか心配すると、子供のことでそれ程心配したことが無いと、妻に非難される。翌日、義弟の家族が来て、小次郎との再会を喜んでくれた。

 その後、皆で義父の墓参りに行って、墓の掃除を済ませて手を合わせる。大晦日は、皆で鍋を突っつきながら紅白を見て過ごす。元日は、お雑煮とお屠蘇で正月を祝う。小次郎には、お年玉代わりに好物のビーフジャーキーをご馳走する。翌2日は、小次郎を連れて車で徳島に向かう。本四大橋が架けられてからは、いつでも帰ることが出来て本当に便利になった。

 実家には、86歳になる母が弟の家族と同じ敷地に住んでいる。父が亡くなって早、25年、四分の一世紀が過ぎた。昨夏も帰省したのだが母は健康で病気もしたことが無いのだが、少しアルツハイマーを患っていて時として記憶が定かで無い時がある。母が元気なうちに出来るだけ会っておこうと思ってこの正月も実家に帰ることにした。

 そして、自宅に帰ると元気な様子で母が迎えてくれた。大阪と違って小次郎は、家に上げてもらえないので庭に放しておく。母は、しばらくぶりの再会をとっても喜んでくれた。近況について報告をした後で、近所にある父の墓参りに行く。墓掃除を終え、母が般若経を唱えた後、遠くから私達が帰ったことを墓前に報告しながら、母の泣いている後ろ姿を見ていると、随分小さくなったと胸が痛む。

 この墓は、生前に父が建てたものでこの墓の後ろの山には、昔飼っていた愛犬達の墓も一緒にあってついでに墓参りすると、小次郎の姿と重なる。思い出すと、この墓のあるお寺でもらった犬や、拾って来て育てた犬は、皆黒毛の犬だった。

 夜、弟の家族も誘って焼肉を食べに行く。母は、小柄だが食欲はいたって健全で、どんぶりのご飯をぺろりと一杯食べてしまった。焼肉もお皿に入れると、美味しそうに残さず食べていた。しかし、昨夏に比べると口数が減って少し覇気が無くなったようだ。

 千葉に帰る都合もあって、食事を終えて大阪に帰ると言うと折角来たのにもう帰るのかと泣かれた。それでも明日になると記憶が定かでなくなるのだが、喜んで呉れる様子を見て、帰って来てよかったと思う。そして、弟夫妻の苦労に感謝しながら徳島を後にした。

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浜名湖ドライブインで浜名湖を背景に小次郎、ハイポーズ!

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明石大橋の祈念碑の前で記念撮影

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淡路島側から見た明石大橋の雄姿
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謹賀新年

2010年01月13日 19:06

明けましておめでとう御座います。

 今年の干支は寅、何回目かの年男です。それぞれの干支にちなんで、その年生まれの性格が言われるようですが、おみくじと一緒で自分にとって都合の良いように解釈すれば良いと思う。しかし、生まれた年によって集団の性格の傾向はあるかも知れない。それは、人の生き方は時代の流れに大きく影響されるからだ。

 私たちの生まれた時代は、戦後間もないころで、それまでの価値観がすべて否定され、百八十度入れ替わったような時代に育った。特に教育において、先生方も手探りで教えなければならない状態だった。団塊の世代と呼ばれ、ひとクラスが50名くらいは当たり前で、教室はいつも密集状態だった。これは、小、中、高校と変わらず、クラスの人数が多いので自己主張がなければその存在すら希薄になるので、うかうかはしていられない。

 家では、兄弟も多いので生存競争も熾烈だった。お腹がすいたと言って口を開けていても誰も餌を運んでくれない。食事時に好き嫌いを言っていれば、たちまち目の前の食べ物がなくなってしまう。おやつなどとチョコレートやお菓子があるわけでもないので、もっぱら野原や山で食い物を見つけてくる。

 遊ぶ時は、中学生を頭に小学生がくっ付いて一つのグループを作る。グループのボスがいわゆるガキ大将としてグループを仕切る。そこで遊びながら野山で食べる物を教えてくれる。桑の実や野イチゴ、ヤマモモなど季節によってたくさんの食べ物があった。時には、草の葉や茎など塩さえ持っていればおいしく食べられた。ある時は、人の山の果物や畑のトマトを失敬して追っかけられもした。

 小学校の帰り途に農学校があって、夏、畑のスイカを失敬して、冷やして食べようと思って小川につけて置くのだが、川の水も温たかくてスイカはいくら待っても冷えない。我慢できず食べるのだが、生あったかいスイカは食えたものじゃない。少し生臭くてとてもおいしいと言えない。因果応報、今もスイカをみるとその頃の記憶が甦ってきていまだにスイカが食べられない。

 秋には、稲刈りの終えた田んぼで文字どうり、草野球に夢中になってボールが見えなくなるまで遊んだものだ。その当時は、グラブも無くソフトボールにバットだけ。小学校の高学年になってグラブを買ってもらって嬉しくて抱いて寝た。その時代を思い出すと、自然と触れ合って育つのが普通のようであった。

 小学校から塾に行って勉強する子供なんか周りには居なかった。人生の後半になって思うのだが、その年齢でなければ出来ないことが貴重な体験となり、お金以上に人生を豊かにして呉れるものだと。そして、その時代が人を育てるのだから、大人として子供たちの環境を考えてあげることが本当に大切だと思う。

 干支の話とその時代背景を考えると寅年生まれは、徒党を組むのが苦手なようだ。良く言えば独立独歩、進取の気性に富み、行動力があると言える。今年は区切りの年として新たな事にトライしたいと、新年早々、気持も新たに決意しているところです。末尾になりましたが、今年もよろしくお願いします。