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母と故郷の墓参り

2010年09月09日 19:07

 
 暦が変わって、9月だと言うのに連日の猛暑で熱中症になりそうだ。今日は、台風が近づいて来て、久しぶりの雨に気温も下がって過ごし良い。

 ところで、8月の始め、徳島に住む高齢の母を千葉に迎へ、母の故郷である青森に20数年ぶりに里帰りすることにした。今年、86歳を迎える母は、物忘れと同時に数分前のことが解らなくなることがある。早く言えば、痴呆症が進んできているようだ。日頃は、遠く離れた、徳島の弟夫婦に母の面倒を見てもらっている。

 母は、男四人、女二人の六人兄弟、の次女として生まれ、現在青森に住む10歳年下の伯父だけが健在だ。母も伯父の顔が解らなくなって里帰りしても、皆が寂しい思いをすると思って、8月のねぶた祭りに合わせて5日から8日まで墓参りを兼ねて青森に行ってきた。
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青森のねぶた。歩道橋によってねぶたの高さは5メーターの制限がある
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ねぶたの前には、トビッコと呼ばれる男女の若者達が、浴衣姿でとびはねながら踊って行く

 伯父とは、私の結婚式以来28年ぶりの再会となった。空港まで迎えてくれた伯父を見て、母が、自分のことは棚に上げて「随分年を取ったネ」と声を掛けたのには驚いた。伯父に会うまでは、母が伯父のことが解らなければ、どう説明しようかと思っていたのだが、杞憂に終わって安堵した。千葉の我が家にいるときは、ここが千葉か徳島か区別がつかなくて、夜中には2時間おきにトイレに行って、そのたびに迷子になっていた母なのに、兄弟の血は濃いものだと改めて知らされた。

 その後、空港から伯父の車で家に行き一息入れて、夜、青森市内のねぶた見物に出かけた。TVでは見たことがあるが、生で見るのは始めて、母は、昔を思い出して、目を輝かせて見物していた。時には、昔のねぶたは、「蝋燭の明かりなので、道が舗装されてなくて、ねぶたが揺れて火事になることもあった」と解説してくれる。時々、5分前のことは、忘れるが昔のことになると昨日の事のように鮮明に覚えているのには驚かされる。

 翌日は、三内丸山遺跡の近くに墓があると言うので、伯父にわがままを言って、遺跡を案内してもらった。青森に着いたときから気温は35度を超える猛暑、TVのニュースでは東京の方がまだ気温が低いと言っていた。叔母はこの暑さで体調が優れないと車で待つことにし、伯父、母、家内と私の四人で、遺跡を見学に行った。

 およそ5千年前の縄文時代に、この集落が造られ、竪穴式住居の跡と一緒に、百人は軽く入れる大きな住居と穀物や食料を備蓄する高床式の倉庫があり、あの有名な二十メーターはあろうかと思う、六本の支柱で建てられた望楼が再建されていた。遺跡からは、精密な工芸品や、この近くでは採れないヒスイなどで造られた首飾りを見ると、高度な文化とともに朝鮮半島とも交易していた足跡もあり、北の僻地に栄えた文化にロマンを感じた。
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古代遺跡の柱の穴の大きさから推測して巨大な望楼を再建している。ちなみに柱は、直径1メーターの栗の木で出来ていたそうだが、現在、国内ではこれほどの巨木が無かったので、ロシアで見つけて輸入して再建したそうだ。この望楼は、祀りに使われたのか、見張りのためのものか正確には解っていない。
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高床式の倉庫を再建。湿気とネズミなどから守るために高床式となっている。

 その後、母の父母と兄弟の眠る墓に花と線香を捧げて祈りを上げてきた。その時、母の感極まって涙する姿を見て、来て良かったと思った。夜は、五所川原の立ねぶたを見物に行った。このねぶたは、英雄、豪傑の立ち姿をねぶたにしたもので高いものでビルの4階の高さを超えるものもあり、高いもので二十メーター位はある。
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今回の目的である墓参り。伯父と一緒に母も墓参りが出来て良かったと思う。
 
 五所川原のねぶたは、お囃子のリズムと掛け声が阿波踊りとそっくりなのには驚いた。ここに阿波踊りの連(阿波踊りでは、男女合わせて百人から四百人位がチームを造り、これをレンと呼ぶ)が参加して踊っても何の違和感もないように思った。機会があれば共演するのも面白いと思う。
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五所川原駅前の交差点。電柱とその配線が無いことに注目。立ねぶたが通るため配線は地下埋設されている。
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高さ18メーターはある立ねぶたの雄姿に圧倒される。
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五所川原のねぶたは、大正時代から約80年中止されていたのを15年ほど前に復活し、市のバックアップもあって、観光の目玉にしようと市民が協力している。ちなみに、歌手の吉幾三氏はこの地の出身でねぶたの初日には、パレードの先頭に立ってねぶたを先導するそうだ。

 3日目の午前中は、近所に住む母の長兄の家を訪れて、線香を上げてきた。夜は青森近郊にある浅虫温泉に泊まった。旅館の人の勧めもあって、青森港で花火大会があると言うので早めに食事を済ませて、母を連れて汽車で青森駅まで行き、繁華街を歩いて10分くらいで花火会場に着いた。港の岸壁には、人の入る隙間もないくらい混雑していて、コンクリートの上に敷かれたビニールシートは満席。しかし、こんな機会は二度とないとようやく隙間を探して席を確保した。

 港の空が茜色の夕日から、うすく紺色の刷毛で掃いた夜空に変わるころ、港の遠くから勇壮な太鼓とお囃子の音とともに、漁船に引かれたねぶたのあかりが浮かびあがって岸壁に近づいてきた。総勢五隻、今回のねぶた祭りで表彰された優秀なねぶたと言うことで色彩もひと際鮮やかで観客席からも拍手が起きる。それに合わせて花火が打ち上げられて花火大会が始まった。
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夕闇せまる青森港。花火の見物客で立錐の余地もない。
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勇壮な太鼓の音と共に漁船に引かれたねぶたが暗い海の上に色彩も鮮やかに近づいて来て、花火への期待を盛り上げる。
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暗闇を染めて色鮮やかな花火の姿と会場に浮かぶねぶたの明かり。港に彩られた一夜のスペクタルに皆酔いしれていた。

 港に浮かんだねぶたと上空に花開く花火の色彩、それに祭りのお囃子の音が加わって、夜の港に華やかなショーが繰り広げられた。東北の短い夏に、一気に吐き出されるこの情熱、日頃は、自分を表に出すことが苦手な、陸奥(ムツ)の人のエネルギーの爆発を見るようだった。

 帰りは、駅まで旅館の人が迎えに来てくれることになっていたのだが、汽車の中で家内と今見た花火のことで話に夢中になってしまい、気がついたときは浅虫温泉駅を乗り越してしまった。次の駅で降りてタクシーで帰ればいいと思って、次の駅で下車しようと思ったのだが誰も降りない、ドアは閉まったままでピクリともしない。隣の人に聞くとドアの横の赤いボタンを押せばドアが開くとのこと、慌ててドアを開けて降りるとそこは改札も無い無人駅。

 降りたのは私達だけ、駅前には何軒かの家があるのだが、まだ9時過ぎと言うのに電灯も無く、暗がりに車が回転できる程度の砂利の広場が広がっているだけ。待合室の蛍光灯と公衆電話ボックスの明かりがやけに空々しく青っぽく光っている。

 こんな時に限って母がしっかりした声で、どうしてこんな無人駅で降りたのか私を責める。そして、反対側のホームに移らないと帰れないと騒ぎたてる。時刻表を見ると登りの汽車は一時間後だ。少しの苛立ちを押えて、気を落ち着けて最善の策を考えようとすると、また母が、「反対側に行かないと徳島には帰れないと」言う。それを聞いて思わず吹き出しそうになった。

 そうか今いるところが解らなくてもそんなに徳島に帰りたいのだ、母にとって生まれ故郷の青森より徳島が故郷になったのだと思った時、思わづ「俺がボケテいて、間違った駅で降りてすまなかった」と言うと、エヘヘと笑って機嫌が直ったようだ。その後、旅館に連絡を取って車で迎えに来てもらって、一件落着、今回の旅行中の小さな事件だった。

 伯父のお陰で墓参りも、ねぶた見物も出来て母にとっても、楽しい思い出が出来たと思う。その後、千葉に帰って一週間程我が家にいて、それから東京に住む姉が迎えに来て、一週間程姉の家で過ごして徳島へ帰って行った。こちらに滞在中は、食欲も旺盛で、病気も怪我もせず無事に帰ったので安堵した。

 しかし、母と2週間程一緒に過ごして、弟夫婦の苦労が始めて解った気がする。高齢化社会を迎えて、どこか人ごとの様で、頭で理解しているつもりでも、実際に経験しないと解らないことが沢山会った。今回、母を通して改めて教えられた気がする。母が徳島へ帰って直ぐに、弟からお礼の電話があったが、こちらこそいつも有難うと素直に言えた。これからもよろしく頼みます。
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