2009年10月08日 13:11
座禅を初体験
「剣禅一如」(けんぜんいちにょ)簡単に言うと(剣も禅も、求めるところは同じである)江戸無血開城に尽力した、幕末の剣豪山岡鉄舟は、剣の修行と同じく禅の修行をして、四十五歳で求める剣の極意に開眼する。佐江衆一の著書「剣と禅のこころ」によると鎌倉時代以降の多くの剣豪が、剣の修行とともに禅を通して剣の極意に開眼する話が述べられている。
江戸時代以前とその後では、剣の修行の目的も違って来ている。特に、戦国時代以前は、剣は殺人を目的とした技術の練磨であった。しかし、戦国時代以降は、戦いに剣を使用することは無くなったと言って良い。江戸時代、柳生流の中でも、修行の目的が、人を殺す「殺人剣」から剣の修業を通して人を生かす「活人剣」へと変貌していった。
明治以後は、剣の修行を通して人間形成が目的へと変化して、現在の剣道にその精神は受け継がれている。そこで、剣道の修行に少しでも役に立てばと思い、片岡鉄舟はじめ、鈴木大拙の「禅」、大森曹玄「剣と禅」等、剣と禅に関する著書を何冊か読んだのだが、率直に言って何も分からない。理解しようとすると、宗教のとてつもない深い森の中に分け入って行くようなもので、それ程勉強するほどの熱意は無い。
そこで、インターネットで禅寺を探してみた。すると意外に近く、佐倉のユーカリに宝樹院と言う禅寺を見つけた。そこで毎日曜日、座禅会を開いているので、早速、先週の日曜日座禅会に参加して来た。日曜日によって時間と内容が異なるのだが、月始めの日曜日は、午前八時から九時半まで座禅を行う。初めての人は、入口で案内を乞うて、先輩の方の案内で記帳を済ませて簡単な作法を教わる。後は、周りの人に合わせるようにとの注意を受ける。
午前八時、御住職の般若経に合わせて全員で唱和する。そのあと二十分座禅。初めての人は、御住職が前を通られる時に合掌して、警策(きょうさく)と呼ばれる(シャモジを長くしたような薄い板)で、左右の肩をたたかれる。作法としては、右手を畳について前傾し、左手を胸のあたりに添える。すると、左肩を5回(回数は確かでないが)次いで同様の作法で右肩を打たれる。パーン、パン、パン、パン、パーンと小気味よい音が本堂に響き渡るのだが、これが痛いようでそれ程でもないのだが、確かに眠気は一気に吹き飛び、しばらくはジーンとした痛みが残る。
五分間休憩の後に、それから、また二十分の座禅が続く。座禅中は、何も考えずに一から十まで、出来るだけ長く呼吸を吐き、短く鼻から吸って、長く呼吸を吐く。これをひたすら無心に繰り返す。黙想は静かに目を半眼に閉じて、二メータ程前の畳に目を落とす。これは、剣道の稽古の前にいつもしている作法と同じだ。本堂の開かれた窓から流れ込んでくる朝の空気が心地よい。遠くで電車の通り過ぎる音が聞こえてくる。座禅を終えると、最後に御住職の法話を拝聴して終わる。
その後、ベテランの人たちが、手際よく本堂の片づけを終えると、床の間に達磨大師の掛け軸の飾られた書院に移動する。約50名の参加者が、床の間の前で正座した御住職を中心にコの字に正座する。すると、世話人の方が抹茶と茶菓子を全員に配る。御住職の挨拶の後、皆でお茶を頂く。
お茶を喫し終わると、参加者の自己紹介。これが面白くて、御住職から10番目ごとの人が挨拶をする。二回まわったのだが幸い、私には順番は来なかった。参加者の紹介を聞くと、15年以上一回も座禅会を欠かしたことがない人や、私のように今日が始めての方もいらした。座禅会を終えて、玄関で御住職の見送りを受ける。今日の感想を聞かれたので、率直に清々しい気持ちになったと伝えると、次回も参加してくださいとの誘いを受ける。機会があればまた参加したいと思った。

↑
山門から本堂を眺める。

↑
本堂、ここで座禅を組む。

玄関への通路。挌式と由緒が感じられる。禅寺の庭は、細部まで手入れが行き届いて
気持ちが良い。

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屋根は、唐破風の玄関。さっぱりとした姿が禅寺らしくて好感が持てる。
「剣禅一如」(けんぜんいちにょ)簡単に言うと(剣も禅も、求めるところは同じである)江戸無血開城に尽力した、幕末の剣豪山岡鉄舟は、剣の修行と同じく禅の修行をして、四十五歳で求める剣の極意に開眼する。佐江衆一の著書「剣と禅のこころ」によると鎌倉時代以降の多くの剣豪が、剣の修行とともに禅を通して剣の極意に開眼する話が述べられている。
江戸時代以前とその後では、剣の修行の目的も違って来ている。特に、戦国時代以前は、剣は殺人を目的とした技術の練磨であった。しかし、戦国時代以降は、戦いに剣を使用することは無くなったと言って良い。江戸時代、柳生流の中でも、修行の目的が、人を殺す「殺人剣」から剣の修業を通して人を生かす「活人剣」へと変貌していった。
明治以後は、剣の修行を通して人間形成が目的へと変化して、現在の剣道にその精神は受け継がれている。そこで、剣道の修行に少しでも役に立てばと思い、片岡鉄舟はじめ、鈴木大拙の「禅」、大森曹玄「剣と禅」等、剣と禅に関する著書を何冊か読んだのだが、率直に言って何も分からない。理解しようとすると、宗教のとてつもない深い森の中に分け入って行くようなもので、それ程勉強するほどの熱意は無い。
そこで、インターネットで禅寺を探してみた。すると意外に近く、佐倉のユーカリに宝樹院と言う禅寺を見つけた。そこで毎日曜日、座禅会を開いているので、早速、先週の日曜日座禅会に参加して来た。日曜日によって時間と内容が異なるのだが、月始めの日曜日は、午前八時から九時半まで座禅を行う。初めての人は、入口で案内を乞うて、先輩の方の案内で記帳を済ませて簡単な作法を教わる。後は、周りの人に合わせるようにとの注意を受ける。
午前八時、御住職の般若経に合わせて全員で唱和する。そのあと二十分座禅。初めての人は、御住職が前を通られる時に合掌して、警策(きょうさく)と呼ばれる(シャモジを長くしたような薄い板)で、左右の肩をたたかれる。作法としては、右手を畳について前傾し、左手を胸のあたりに添える。すると、左肩を5回(回数は確かでないが)次いで同様の作法で右肩を打たれる。パーン、パン、パン、パン、パーンと小気味よい音が本堂に響き渡るのだが、これが痛いようでそれ程でもないのだが、確かに眠気は一気に吹き飛び、しばらくはジーンとした痛みが残る。
五分間休憩の後に、それから、また二十分の座禅が続く。座禅中は、何も考えずに一から十まで、出来るだけ長く呼吸を吐き、短く鼻から吸って、長く呼吸を吐く。これをひたすら無心に繰り返す。黙想は静かに目を半眼に閉じて、二メータ程前の畳に目を落とす。これは、剣道の稽古の前にいつもしている作法と同じだ。本堂の開かれた窓から流れ込んでくる朝の空気が心地よい。遠くで電車の通り過ぎる音が聞こえてくる。座禅を終えると、最後に御住職の法話を拝聴して終わる。
その後、ベテランの人たちが、手際よく本堂の片づけを終えると、床の間に達磨大師の掛け軸の飾られた書院に移動する。約50名の参加者が、床の間の前で正座した御住職を中心にコの字に正座する。すると、世話人の方が抹茶と茶菓子を全員に配る。御住職の挨拶の後、皆でお茶を頂く。
お茶を喫し終わると、参加者の自己紹介。これが面白くて、御住職から10番目ごとの人が挨拶をする。二回まわったのだが幸い、私には順番は来なかった。参加者の紹介を聞くと、15年以上一回も座禅会を欠かしたことがない人や、私のように今日が始めての方もいらした。座禅会を終えて、玄関で御住職の見送りを受ける。今日の感想を聞かれたので、率直に清々しい気持ちになったと伝えると、次回も参加してくださいとの誘いを受ける。機会があればまた参加したいと思った。

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山門から本堂を眺める。

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本堂、ここで座禅を組む。

玄関への通路。挌式と由緒が感じられる。禅寺の庭は、細部まで手入れが行き届いて
気持ちが良い。

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屋根は、唐破風の玄関。さっぱりとした姿が禅寺らしくて好感が持てる。
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